小小的安來站

或許是因為月山富田城還有知名的足立美術館

感覺是整修過

很木造很新很文青

歡迎光臨 

島根喵

可以在這邊的觀光案內所詢問怎麼搭車比較順

也可以跟他們要一張簡易的安來市巴士時刻表

本來一度想要騎腳踏車去的

不過看到那些路程我就放棄了

還是乖乖搭巴士吧!!

其實我原本計劃先搭乘11:08足立美術館的無料巴士

是後來才臨時起意先去月山富田城

這是第二個巧合

環環相扣下會有什麼事發生

等後幾篇我再說吧!!

後來我選擇搭乘的是黃色的廣瀨周遊巴士

單程200日元~

一日卷500日元

但我只需要兩趟

所以就沒有買一日卷了

因為巴士的班次不多

當初找資料時還想說怎麼可能中間空好幾個小時都沒車

事實證明

不要懷疑巴士時刻表

真的一點多之後要到下午三.四點才會有車

這次我搭乘到市立病院前下車

要再走8分鐘才會到安來歷史資料館

如果時間上剛好的話

坐另一個路線巴士在月山入口上下車就不用多走一段路.直接就是安來歷史資料館了

但是班次很少

要先調查好才行

日本100名城的章在這邊

把抽屜打開就能看到

蓋好要記得放回抽屜喔

等會兒又要爬山了

因為在做整修復元

所以有半座山頭都封了

也造成我後來在12點出頭就轉往足立美術館的巧合2

尼子興久(あまご おきひさ) 1497~1534

○彦四郎 宮内大輔

塩冶氏

◇父:尼子経久 子:尼子彦四郎清久

出雲尼子氏一族。武に優れ、父をよく扶けた。やがて父よ西出雲要衝塩冶3千貫を任されるが、これを不服として重臣亀井秀綱通じ、さらに加増要求。しかし認められなかった為、秀綱が讒言したものと思ってこれを討とうとし、秀綱を庇う経久と衝突する。結局敗れて、叔父備後山内大和守直通の下へ逃亡し、やがて自害追い込まれた。その首を見た経久は怒り忘れ悲しんだという。

轉自網路

明応6年(1497年)、出雲国戦国大名・尼子経久の三男として誕生。

永正8年(1511年)、西国の大々名である周防山口の大内氏当主・大内義興が上洛した歳に経久がこれに従った縁により、義興から偏諱(「興」の字)の授与を受けて興久と名乗る。同時期には次兄の尼子国久管領細川高国から1字を受けており、父・経久が将軍足利義稙を支援する義興・高国両者との関係を親密にしようとしていた狙いがあったとされている。

出雲源氏の嫡流である塩冶氏の養子となり、永正15年(1518年)の日御碕神社への社領寄進の際において、寄進状に「塩冶彦四郎興久」と記されていることから、この時期に既に養子となっていたとみられる。塩冶氏は出雲西部では大きな勢力を持つ一族で、鎌倉幕府時には出雲守護を務めていた名族であった。斐伊川を中心に勢力を扶植しており、同族の古志氏出雲大社宮司の北島氏千家氏とも血縁関係を持ち、室町時代には幕府奉公衆を務め、守護不入の特権を持っていた。こういった背景もあり、出雲守護となった父・経久が、塩冶氏を配下に取り込むべく養子に出したと思われる。

興久は父の意向に従い、その思惑通りに幕府御料を直轄地とし、古志氏などを尼子配下に組み入れるなどしたが、塩冶氏の権益を独自に維持する必要もあり、出雲大社・雲南地域に力を持つ三沢氏多賀氏などの反尼子諸勢力との結び付きを強めていく。更には、興久は備後国北部に勢力を持つ山内氏の娘を娶り、塩冶氏の同盟勢力は出雲西部・出雲南部、備後北部に至るまで拡大していた。

享禄3年(1530年)、興久は父・経久に対して反乱を起こす。『陰徳太平記』によれば、所領加増が認められなかったために反乱を起こしたとあるが、連年に渡る遠征に伴う国人領主の負担への反発、尼子家中における重臣達の勢力争いも背景にあり、出雲国における尼子氏統治への不満も大きく、出雲国を二分しての尼子氏と塩冶氏の全面対決に至ったと推測される。また、この頃に尼子氏と大内氏は対立関係にあり、前述の通り大内義興から偏諱を受けている興久が反尼子派になったと考えても割と自然であるといえ、こちらも一因となっている可能性はある。なお、時期については、杵築大社(現・出雲大社)旧御遷宮次第に「興久は同年の3月8日に出雲大社の柱立を行う等した後に乱を起こした」と記述されており、こちらが正しいと思われる(軍記物では2年後となっている)。同年4月5日、興久が書き記した書状によれば、成相寺の尼子氏からの公役忌避及び所領・地位保障を約束しており、この時期には経久との確執は相当深くなっていたとみられる。この乱で興久側の立場となったのは、出雲大社・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏・真木氏・備後山内氏但馬山名氏などの出雲西部・南部の有力国人で、尼子氏の出雲西部での求心力が低いことが露呈される。

この反乱は、尼子氏の足元を揺るがしかねない大規模なもので、鰐淵寺なども興久支持に回り、尼子氏がその傘下に組み入れることを狙っていた出雲国大原郡の国人領主達が興久側へと鞍替えしている。興久は大内氏へと支援を求めたが、両者共倒れを狙う大内義隆(義興の嫡男)は劣勢であった経久側を支持する。興久は善戦するも、遂に最後の砦であった出雲佐陀城が陥落し、妻の実家である山内氏を頼って備後国へと逃れた。備中国新見氏への書状によれば、天文2年(1533年)に尼子経久から備後遠征に伴う出兵を求められており、備後に逃れた後も興久が抵抗していたことが伺える。

天文3年(1534年)に自害。乱は終決した。興久の遺領は子の清久と、次兄の国久が継いだ。

この興久の乱により、経久の出雲国の支配体制、また尼子家中の権力基盤に問題があることが鮮明となり、後に尼子宗家権力基盤強化への道と繋がっている。

維基百科

我本來想說應該不會很累的

結果我錯了!!

這種山路最難走了~

我看到前方的路真的很想打道回府了~


山中幸盛(1545年9月20日-1578年8月20日)是日本戰國時代武將,尼子家武士。別稱山中鹿助山中鹿介山中鹿之介尼子十勇士之一。父親是山中滿幸母親是立原綱重之女。幼名甚次郎,小時已經代替病重的兄長鐮之助。被喻為山陰的麒麟兒,據說是個美男子[1]

山中幸盛的初戰於1560年是對山名氏高尾城之戰,於該戰中殺了敵將菊地正茂。1562年,白鹿城救援戰,與杉原盛重的部將品川大膳單挑,勝出以後,毛利軍也知道此將存在。由於當時幸盛的頭盔是鹿角,鹿介之名由此得來。

於1566年,尼子義久投降毛利軍,逃亡到北九州,為了復興尼子家,曾對著月亮發誓願受佛教所說七難八苦[2]

[3]

來換得尼子家中興, 名句「七難八苦」也是由此而來

[來源請求]

,這成為了幸盛回復主家的決心。之後1569年與其叔父立原久綱共同行動,找回於新宮黨事件中,未被殺害幸運逃到京都東福寺出家的尼子勝久,和尼子勝久的餘臣一起準備復興尼子家。後來一度成功攻略白鹿城。不過在1571年,被毛利軍再次攻奪回,而山中幸盛也被捕,但是成功逃脫。再一次成為流浪之身。有說他在毛利軍領地進行搗亂,也有說在京都隱居。後來於1575年,織田信長收編了尼子氏的部隊,配屬於明智光秀的部下,參與過對松永久秀信貴山城攻略,擊敗了松永久秀的部下川合秀民

之後尼子勝久被封於上月城,成為對毛利最前線的據點。但是1578年,毛利軍聯同宇喜多軍聯合侵攻,當時織田信長羽柴秀吉忙於石山本願寺和別所氏荒木氏的三木城攻擊無暇救援,奮戰至最後依舊在上月城之戰戰敗投降[4]

,投降的條件包括勝久及弟助四郎切腹,山中幸盛、立原久綱作為人質。[5]

最後在護送途中,在備中國被毛利氏所派的刺客設計殺害

維基百科

還有一些時間我就繼續往上爬囉~

好了~

要趕緊下山

往足立美術館前進了